勉誠通信36号(2015/9/25)

 

「動物園の歴史」から、『ジュラシック・ワールド』を分析する!

溝井裕一(みぞい・ゆういち)


『動物園の文化史』の著者、溝井裕一先生からご寄稿いただきました。(この文章では『ジュラシック・ワールド』の内容が一部紹介されています)

「コントロール・ルーム」と「まなざし」
この夏に公開された『ジュラシック・ワールド』は、マイクル・クライトンのSF小説『ジュラシック・パーク』(1990年、1993年に映画化)の正当進化型といっても、さしつかえのないものでした。私がそう考える理由は、ふたたび「恐竜動物園」を舞台にした物語だからということにくわえて、その施設の描写にあります。
『ジュラシック・パーク』(小説版)では、強大な力をもつ動物を、どのようにコントロールできるかということに焦点が当てられていました。そのさいキーワードとなるのが、「まなざし」です。
パークの前身にあたるのは、欧米の近代動物園や、王侯貴族のメナジェリー(私設動物園)ですが、そこではつねに動物を「監視すること」が問題となってきました。これは、ただ動物が脱走しないように見張るというだけではなく、動物を思うままに眺めることによって、人間が彼らを「支配している」ということを実感できたからです。そうした態度の根底にあったのは、「人間は神に代わってすべての動植物を支配できる」という、キリスト教的世界観です。


ヴェルサイユ宮殿にあったメナジェリー(17世紀建設)では、パビリオンから一望するだけですべての動物を視界におさめられるようになっていた。

 


小説版『ジュラシック・パーク』では、恐竜たちは自動化されたビデオカメラとセンサーによって、パークのどこにいても、たちまち居場所とその様子がつきとめられるようになっていました。こうした設備を管理する、いわばパークの中枢にあたるのが「コントロール・ルーム」です。
残念ながら、この作品が映画化されたとき、「コントロール・ルーム」の機能のほとんどが割愛されてしまいました。しかし『ジュラシック・ワールド』では、この施設がしっかり再現されています。しかも、赤外線カメラを使用したり、GPS機能のついたインプラントを恐竜の体内に埋めこんで追跡可能にするなど、現代の最新技術をもちいている点がユニークです。しかもこのインプラントは、定められた区域から出ようとした恐竜にショックを与えることができる、「目に見えないフェンス」の役割も担わされています。
ちなみに、『ジュラシック・ワールド』用に制作されたポスターのひとつに、このテーマパークを管理する立場にあるクレア・ディアリングが、分厚いアクリルガラスごしに巨大なハイブリッド恐竜「インドミナス・レックス」を冷静に眺める様子が描かれています。これは、「まなざし」をとおした支配形態をみごとにあらわしているでしょう。


人間の欲望が生んだ「怪物」
『ジュラシック・パーク』では、管理システムがもともと不安定であったため、エンジニアの裏切りというかたちで一気に崩壊してしまいます。しかし『ジュラシック・ワールド』では、「まっとうな」恐竜の飼育に関しては、技術的問題をクリアしているようです。この面では、監視方法が進化したことはもちろん、飼育舎の形状が変化している点も注目されます。
というのも、危険な恐竜は、高いコンクリート壁で固めた要塞のようなところで飼育されており、意図的に門を開閉しない限り、外へ出られなくなっています。『ジュラシック・パーク』では、電流フェンスなど最新技術を多用した結果、かえって脱走を許してしまいますが、『ジュラシック・ワールド』は、この点ではむしろ前近代的な動物飼育に近いといえるかもしれません。


近代まで使用されていたベルン(スイス)のクマ濠。動物が脱走するのを防ぐために、周囲を頑丈な石壁で囲った例である。

 


このようなシステムが、「お約束」の破たんをどのようにして迎えるのか。これにたいする製作陣の回答が、先述の「インドミナス・レックス」です。すなわち、『ジュラシック・ワールド』の経営陣は、入場者をより増やすために、複数の恐竜や両生類の遺伝子を統合させて、凶暴性、頭脳、力のすべての点において抜きんでた「怪物」をつくってしまいます。しかしこれがとうとう人間の裏をかくようになり、恐竜動物園の破滅を招くことになるのです。ちなみにインドミナス・レックスは、「支配不可能な王者」を意味します。
破たんに至る具体的なプロセスは、作品を見ていただければと思うのですが、「インドミナス・レックス」は、ただストーリーを面白くするためだけの要素ではありません。最初に、『ジュラシック・ワールド』は『ジュラシック・パーク』の正当進化型だと述べました。『ジュラシック・パーク』では、「自然はコントロールできる」とする西洋式態度が批判されていますが、「インドミナス・レックス」は、そうした態度の行きつく先に生まれた怪物でもあります。つまり、第2の恐竜動物園では、飼育の問題点をすべてクリアしたかに見えるのですが、さらなる利益を生もうとするあまり、「自然の支配」どころか「改造」にまで踏み込んでしまい、これが悲劇を生むというわけです。
ちなみにこうした試みは、動物園の歴史からすれば、別段珍しいことではなかったことも、指摘しておきたいと思います。たとえば第二次大戦中、ナチス支配下にあった動物園は、現生の動物をかけあわせた「ハイブリッド動物」をつくることによって、地上から消えた動物を再現しようとしたことがあります。これについては、拙著『動物園の文化史』についてくわしく書いているので、興味がおありでしたらご覧ください。


作品にこめられたさまざまな動物論
『ジュラシック・ワールド』のもうひとつ興味深い点は、「動物機械論」やダーウィンの「進化論」ももりこんでいる点でしょう。「動物機械論」は、17世紀の哲学者ルネ・デカルトにさかのぼるもので、人間に魂があっても、他の動物には存在せず、いわば機械のようなものであるという発想です。ジュラシック・ワールドの運営に関与しているインジェン社の警備責任者ヴィック・ホスキンスは明らかにこの考えかたにとらわれており、恐竜を兵器として活用し、従わないものは淘汰すべきだと主張します。
またホスキンスは、そうした冷酷な技術革新は、生存闘争の耐えない自然界においては当然のことだと述べますが、これはチャールズ・ダーウィンの説に影響されたものでしょう。もっとも、ダーウィンは決して弱肉強食の原理を唱えたわけではないのですが、彼の説は誤ってこのようなかたちで一般に広まった結果、ホスキンスのようなことをいう人物がでてくるわけです。
このような動物に関するさまざまな言説が、さりげなく会話のなかでもりこまれている点も、この作品を奥深いものにしていますし、クライトンの原作をほうふつとさせるものにもなっています。



デカルト(上)やダーウィン(下)に端を発する動物観も、作品にとりこまれている。

 


多様なひとと動物の関係を描写
ほかに見逃せない要素として、恐竜動物園にやってくる入場者のふるまいがあります。ワールドを運営するCEOサイモン・マスラニは、ここは「人間がいかに卑小な生きものにすぎないかを教えるところ」と位置づけていますが、じっさいの入場者はといえば、ただ興奮する要素を求めているだけだったり――だからインドミナス・レックスが必要になるわけですが――スマホに気をとられていたりするのが、妙にリアルです。オープン当時の理想と現実がかみ合わない場面は、「教育と研究」を標榜する現代動物園や水族館にもしばしば見られるものです。いやむしろ、映画製作者が動物園で観察したことを、とり入れたのかもしれません。
さらに、たとえ動物園が「支配」を体現する場所であったとしても、施設内における人間と動物の関係は、しばしば複雑です。たとえば、檻の向こうで働く飼育員と動物のつながりは、たんに「支配/被支配」の図式にとどまらない場合もあるでしょう。『ジュラシック・ワールド』では、この視点ももりこまれていて、ヴェロキラプトル(小型の肉食恐竜)を幼体のころから育て、信頼関係を築こうとする元軍人オーウェン・グレイディの姿が描かれています。しかし彼は、ラプトルが兵器に利用されるかもしれないことも知っており、「動物にたいする支配」と「動物との共生」のあいだで板挟みになります。
このように『ジュラシック・ワールド』は、「自然は支配すべきものか?」、「理想的な人間と動物の関係とは何か?」といった、古くから動物園が投げかけてきた問題をとりこんでいます。映画を見て、もしそうしたテーマに興味をおもちになったら、『動物園の文化史』も手にとっていただければ幸いです。

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動物園の文化史

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