プロパガンダ・ポスターが語る戦時下―『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争』刊行記念特集

 

ポスターとは人々に対して、何らかの事物を伝えるために、印刷という複製技術を用いて製作されるものを指します。ポスターに鮮やかな色彩や斬新なデザイン、気のきいたキャッチ・コピーが施される理由は、見る者の視線をひきつけ、記憶されるためであり、その最終目標はそれが意図する具体的な行動を取らせることにあります。第二次世界大戦中、大衆に対してもっとも影響力があったメディアはポスターでした。国民に戦意高揚を促し、戦争参加を呼び掛けるポスターは当時、全世界で製作されました。
本書では、長年にわたりポスターの研究をされてきた青梅市立美術館学芸員の田島奈都子先生が、1930年代から1945年まで、満州事変を経て日中戦争・太平洋戦争へと突入していく十五年戦争期に製作された、日本の戦争ポスターをカラー図版とともにご紹介いたします。
「募兵」「女性と子供」「節約と供出」など、内容や種類別に7章で構成されており、ポスターの製作にたずさわった画家や図案家、デザインについてのコラムも収録しています。
近年、戦争の悲惨な記憶が風化しつつありますが、今でも世界では戦争や紛争などが頻繁に起こっています。これらのポスターを通じて、過去の歴史を反省し、戦争とはどのようなものであるか、戦争というものが国民に何を強いるのかを想像するひとつの機会となればと思います。

本書の意義

長野県の県南に位置する阿智村には「知る人ぞ知る存在」として、135枚のプロパガンダ・ポスターが、一族三代にわたって継承されてきました。本書はそれらを中心として、関連する作品を紹介するものです。
さて、「プロパガンダ」ですが、これは「宣伝」を意味し、政治思想の浸透や拡散を目的に実行されます。従って、プロパガンダ・ポスターとは、そのような目的遂行のために製作されたポスターを指し、戦時期の日本においては、帝国政府や軍を依頼主として、大判で色鮮やかな多種多様なプロパガンダ・ ポスターが大量に製作されました。そして、それらによって感化された国民は、勝利を信じて戦争の続行を支持し、15年の長きにわたって戦い続けました。
ポスターはしばしば「時代を映す鏡」と称されますが、市中のあちらこちらに掲出された現存するプロパガンダ・ポスターは、現代に生きる私たちに対して、「戦時期」の状況を雄弁に物語ってくれます。1931年の満洲事変以降、45年の終戦までの間の日本がどのような国家であり、国民がこの15年間をどのように生きてきたのかを、プロパガンダ・ポスターという「原資料」によって振り返ることは、戦争体験者が減少し、映画やドラマで描かれる戦争が画一化、もしくは一方的になりつつある今日だからこそ、大切であると考えています。

田島奈都子(青梅市立美術館学芸員)

 

個別解説

①海軍甲種飛行予科練習生募集 海軍省 1942年

このポスターが募集しているのは、1942年10月1日付で入隊する練習生である。応募資格に学歴は不問とされていたものの、実際には旧制中学校三年生修了程度の学力が求められ、数学、理科学、国漢文、英語、地理、歴史の学科試験も課されたことから、合格出来るのは文武に優れた者のみであった。当時は真珠湾攻撃やマレー海戦における、海軍航空隊の華々しい活躍ばかりが喧伝されていたため、それを意気に感じた有為な若者がこぞって応募した。



②赤十字デー―戦線に銃後に愛の赤十字― 日本赤十字社 1939年

日本における赤十字デーは1933年から実施され、毎年それにちなんだポスターが製作・配布された。
特に、このポスターが製作された39年は、赤十字条約締結75周年の記念の年に当たったことから、日本赤十字社本部を筆頭に、全国各地の系列病院では盛大な記念行事が挙行され、これにちなんで製作されたポスターやパンフレットの数は、例年よりもかなり多かった。しかし、37年の日中戦争の開戦から丸2年が経っていた当時、従軍する日赤看護師の数は年々増加し、それに伴って戦地で命を落とす者も増えていた。
赤十字旗を掲揚しようとする看護師は、自らの職業に対する自信と使命感に燃えているような表情を見せている。ただし、白衣から露出した顔や腕は日焼けしており、ポスター上に記された「戦線」が感じられる作品である。



③強く育てよ御国の為に h.fujii 厚生省体力局 1939年

1939年、厚生省は全国の生後1カ月から1年2カ月までの赤ん坊に対して、毎年、国費で健康診断を実施する施策を打ち出した。これは、将来「祖国を護る兵隊さん」や「日本の母」となるべき「国策赤ちゃん」が、健全に生育しているかどうかを調査するためのものであり、診断結果を記入した用紙は保護者に配布されるほか、市区町村に保管され、以降はこれに基づいた育児指導がなされることになった。
一方、妊産婦に対しては、自身の健康管理や育児方法についての、啓蒙的な講演会や映画上映会が催され、この年にはこのポスターを表紙にあしらったパンフレット『子供の育て方』も配布された。



④230億我らの攻略目標(的に向かって突撃する兵士) 日本宣伝技術家協会 大蔵省、道・府・県 1942年

当初こそ短期決戦となると思われていた日中戦争は、予想に反して長期化と泥沼化の様相を深め、戦争続行のための必要経費はかさみ続けた。政府は1938年6月に80億円を目標額として初の貯蓄奨励運動を実施したが、その後も同様の運動を繰り返し、太平洋戦争の火ぶたが切られた半年後の42年6月19~25日に実施された貯蓄強調週間の目標額は、230億円にまで引き上げられた。
ちなみに、この貯蓄目標額は45年2月に600億円にまで増額され、各金融機関や自治体には個別に目標額が定められた。こうして市中から半ば強制的に回収された現金は、戦争続行のための資金となっていった。



⑤往け若人! 北満の沃野へ!! 三四呂 長野県 1940年頃

1936年から国を挙げて推奨された満蒙開拓移民に関して、長野県は全国で最も多くの人材を送り出した自治体となった。具体的には、村や集落を単位とした集団移民も頻繁に行われた一方、自作農を目指して個人的に満蒙に渡ろうとする農家の次男や三男も多く、彼らはこのポスターが呼びかける満蒙開拓青少年義勇軍の募集に応じるかたちで、新天地を目指した。ただし、政府や軍は彼らに対して、「開拓移民」としてよりも「義勇軍」として活動することを求め、中ソ国境沿いに入植した彼らは、戦争末期のソ連軍の参戦によって、若くして命を落とすことになった。


 

Q&A

編著者の田島奈都子先生に戦争ポスターの特色や刊行に至る経緯についてお話しいただきました。

・当時、戦争ポスターはどのような場所に貼られていたのですか
A:戦前期の日本製ポスターは、全般的に多くの人が集う場所、具体的には役所や駅、公会堂や映画館、学校やデパート等に配布・掲出されました。もっとも、戦争ポスターの場合は、例えば募兵であれば、適齢期の男子が通う学校や工場、債券であればそれが販売される郵便局が、効果的な掲出場所となりました。ただし、日本のポスターは基本的に、屋内もしくはショーウインドーの中など、雨風の当たらないところに掲出されました。当時の日本製ポスターは耐水性や耐光性に乏しく、高温多湿の環境ではすぐに傷んでしまうため、欧米のようにポスターを屋外に掲出する習慣は、日本では定着しなかったのです。ただし、選挙のポスターだけは屋外掲出を基本とし、当時の新聞にはポスターが貼られた雪だるまの写真が掲載されています。

・阿智村コレクションはどのようなところが貴重なコレクションなのでしょうか?
A:数量的なことをいえば、阿智村コレクションは多い方ではありません。しかし、プロパガンダ・ポスターに特化していること、また来歴が明確で、一族三代にわたって大切に継承されてきたことは、評価に値します。
それから、このコレクションには地元長野県ゆかりの作品が十数点含まれており、このことは大いに注目されるべき事項です。一般的に、地元ゆかりの作品が地元に存在することは、当然の帰結と思われることでしょう。しかし、地域限定の作品は製作枚数がそもそも少なく、実は意外に残りにくいのです。従って、コレクションの中に地元ゆかりの作品が、良好な状態で含まれていることは特記すべき事項となり、それらは郷土の歴史を考える上でも貴重な存在です。

・阿智村コレクションとの出会いと刊行に至るまでの経緯を教えてください。
A:私が阿智村コレクションの存在を初めて知ったのは、今から7年くらい前になります。当時の阿智村は、所有者からポスターをお預かりし、寄託を前提に分類整理作業をしていました。しかし、制作年や作者についての調査にまでは手が回らず、それらについての情報を欲していました。
一方、戦前期の日本製ポスターを中心とするデザイン史を専門としている私にとって、阿智村コレクションは是非とも実物を見てみたい存在であり、またこれまでの調査研究の蓄積として、私の手元には主要な作品に関する制作年や作者に関する情報がありました。
こうして、阿智村と私は互いが欲しいものを提供し合うことで合意し、村は私から得た作品情報を元に整理作業を一段と進め、私は阿智村コレクションを閲覧調査する機会を得て、この分野の研究を深化させていきました。その過程においては、何度も図録作成の話が持ち上がりました。けれども、135枚のプロパガンダ・ポスターをまとめた図録は、諸般の事情から実現には至りませんでした。
本書に関しては、具体的な企画提案から実際の発売までに、約1年の時間を要しました。しかし、これは編集者と私が二人三脚で歩んだ時間であり、私自身は基礎的調査研究に、断続的に10年以上の歳月を費やしています。それでも、これまでの経緯や、調査研究の成果が一般に広く公開できる機会が稀であることを考えれば、このような形で1冊にまとめられたことは非常に幸運であり、これまで何度となく閲覧調査にご協力いただいた阿智村に対しても、ささやかな恩返しになったものと思っています。

・今後の展望についてお聞かせください。
A:本書は阿智村の個人宅に残された135枚、121種のプロパガンダ・ポスターを中心に紹介していますが、国内で現存する同種のポスターはその何十倍にもなり、当時の新聞雑誌に紹介されている作品を含めれば、その総数はそのまた何倍にもなります。全てを網羅することは不可能ですが、日本の十五年戦争期を概観・理解する上で、これらのポスターは非常に有効であり、将来的にはもう少し幅広く作品を収録した書籍を刊行したいと思っています。また、その際には外国の方にも読んで頂けるような、工夫も施したいと考えています。

 

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