『列伝体 妖怪学前史』の前史―『列伝体 妖怪学前史』刊行記念特集

 

初期の打ち合わせ~はじめにに代えて(式水下流)

2021年11月『列伝体 妖怪学前史』が刊行されました。この本は現代の妖怪学に影響を与えた23人の紹介を中心に戦前・戦後(前)・戦後(後)それぞれの時代の通史、重要な刊行物・用語・動向について解説した〈妖怪学名彙〉と250点超の貴重図版とともに紹介しています。

この本ができるまでの軌跡を、
・執筆に入るまでの打ち合わせ時の話
・刊行された表紙デザインに至るまでの変遷
・各執筆者より『列伝体 妖怪学前史』には掲載されなかった取捨された画像
の三つのトピックで進めたいと思います。

2017年12月

異類の会に合わせて國學院大学で執筆者の顔合わせ(異類の会でほとんどが旧知のメンバー。この時私は初めて幕張本郷猛さんとお会いしました。)と執筆項目の割り振りを行いました。立項項目(取り上げる人物)については伊藤慎吾さん、氷厘亭氷泉さんとである程度ピックアップされており、得意分野・調査分野を当てはめていくだけだったので、話はスムーズに進みました。この段階で、実際の執筆担当がほとんど決まりました。

B4表裏の図1の資料が配布され、メンバーが企画の全容を知ることになりました。実際に本に掲載された名前以外にも佐藤清明、巌谷小波、石塚尊俊、大伴昌司、粕三平(本文でも通史や各項目でも名前はあがっているので、索引から探してみましょう。)などの名前も書いてありました。本文中には紹介されませんでしたが、木暮正夫や白川まり奈の名前も。


▼図1 一回目の打ち合わせの際に配布された氷厘亭氷泉さん作の資料

 

2018年11月

勉誠出版での刊行が「ほぼ」決まった段階での打ち合わせ。前回に続いて國學院大学で集合しました。取り上げる項目の確認として、幾つかの項目の担当者変更がありました。幕張本郷猛さんの担当だった「北川幸比古」と式水の担当だった「中岡俊哉」を交換。妖怪名彙項目として戦後妖怪サークル(後に「お化けを守る会」と名称変更しました。)という項目も式水が担当になり、永島大輝さんの「芳賀郡土俗研究会報」もこの時に追加されたものだったと思います。また、この時にコラムに関しても各自で設定が行われました。

この時に配布された図2ではB4の冊子状になり、図1のバージョンアップと伊東忠太の項目の記事イメージの提示が氷厘亭氷泉さんよりありました。
この資料の表紙の「がしゃどくろ」が初期の表紙のイメージ画に繋がっていきます。
表紙のデザイン変遷も見ていきましょう。


▼図2 二回目の打ち合わせの際に配布された氷厘亭氷泉さん作の資料の表裏の表紙

 

表紙のデザイン変遷(氷厘亭氷泉)

『列伝体 妖怪学前史』の表紙デザインには、「ちくじんちゃん」(明治時代に「化物会」の企画連載中に新聞で紹介されたということダケが確認されている「畜婦人」という画像妖怪の新規作画)を用いたのですが、実のところ当初はその色紙型の箇所に配置する予定の妖怪は「がしゃどくろ」でした。

本文のもろもろの解説箇所を読んでもらえば、「がしゃどくろ」が現在ひとびとのあいだで認識されているような定番イメージにと変転していった、60年ぐらいの経歴をご理解出来るかと思いますが、近世から明治・大正には存在せず、チャキチャキの昭和うまれといった点からも、この「がしゃどくろ」は、アプレゲール(戦後)の妖怪の代表であるといえます。

いっぽう、イメージを変に近世に結び付けられ過ぎたり(歌川国芳の錦絵を公共機関レベルですら無意識に「がしゃどくろの絵」と堂々と言ってしまう)、完全に「ただの子供向けの創作」として妖怪としては半端ものにあつかわれたり(不必要に「民俗」を主格に用いて、巨大な骸骨の妖怪イメージを示す新顔として作品世界で大きく利用されつづけている点を恣意的に無視してしまう)など、両極端にゴチャゴチャに見られている「がしゃどくろ」の立ち位置そのものが、「妖怪学前史」で示したかった多様な妖怪の点と線の一ッの典型でもあったので、その「初代のころの設定のすがた」を明確に打ち出しておきたいというのが、その選抜理由でした。


▼図3 企画当初の表紙デザイン案(2019年)目の玉が飛び出したり光ったりしてるのが、斎藤守弘・佐藤有文によって解説されていた初代の「がしゃどくろ」の最大の特徴。

 

いっぽう、「畜婦人」は、「がしゃどくろ」とは真逆で、近世あるはい明治に描かれて存在していたのに、大正・昭和と一切紹介の面灯りが掛かることが無く、ずぅーッと歴史の時空のなかでほとんど周知皷吹されることもなく、塩漬けになりつづけていた画像妖怪です。

数年前に毛利さんが「化物会」の研究を学校でなさった際に掘り出してくれており、類例もほぼ無い点から注目していた画像妖怪だったので、何か機会場面があれば使おうと常々思っていましたが、こちらは当初、ほぼ《おあそび》で提示した別案(3つめぐらいの案)に描いたダケのものでした。

これらを提出してみたところ、伊藤さんから「目を引くものでありながらも、ドギツサのないデザインのほうがいいのではないかと思います」というご意見をいただいたので、「ナルホド、じゃあ色紙型の「がしゃどくろ」を「畜婦人」のコレに吹き替えてみよう」と、折衷をして生まれたのが表紙の装幀デザインなのでした。


▼図4 今戸人形風に焼かれる畜婦人。(氷厘亭氷泉・画)

 

そんなわけで、畜婦人を今戸人形風に描き上げて、表紙デザインはほぼ決定するに至りました。

今戸人形風にリデザインするとい手法は、のうみその中の《やわらかいデザイン化》というカテゴリに「田舎源氏に出て来る今戸人形でデザインした系図」があったからですが、間接的には、別冊太陽『日本の妖怪』やモンキー文庫『幽霊・お化け・妖怪』などで、一時期定番のように存在していた妖怪紹介の特集テーマ分野のひとつ「郷土玩具」の雰囲気も何かコッソリ仕込んでおこうという部分もありました。(本文では、主要人物にこの分野のひとが少なかったので詳述出来ませんでしたが明治の頃からつづく、趣味方面の歴史の大きな一側面でもあります)


▼図5 柳亭種彦『偐紫田舎源氏』5編(1831年)の序文にある登場人物の系図は、今戸人形を並べる趣向でデザインされている。明治時代に落合芳幾が装幀を手掛けた活版組の再販売バージョンでも表紙デザインにこれが用いられていたりもしたのが「今戸人形みたいにリデザインする」という発想の種子。

 

表紙デザインは2019年の段階でほぼ出来ていましたが、装幀は表紙だけではなくて背表紙・裏表紙といっしょになってはじめて全体が揃うわけで、2021年9月から改めて編集作業がはじまったあとには、そちらも本格始動しました。


▼図6 帯や図版のトーンを検討した際の見本案と、カバー全体を考案していたときのレイアウト案(2019~2021年)式水さんの提案で裏表紙にも畜婦人をワンポイントで添えた。

 

特に、背表紙から裏表紙にかけて紅白どちらに地色を敷くかについては、本屋さんの店頭で並んだときに見栄えがするか、パッと目に飛び込みやすいか、なども含めていろいろと協議をしたりしました。


図7 式水さんの本棚の写真に、背表紙イメージを合成写真してつくった実験画像(2021年)「妖怪の本は黒い背表紙が多い」という体感統計から、それらと並べて紅白どっちの背表紙のほうが目立つだろうかという実験をしたときのもの。

 

どちらのほうが良いか、優るか、という紅白源平バトルの末、現在店頭に並んでいるようなデザインで行く方向性が決定されていったのでした。

永島センセイいわく「大学入試の本が 赤本 というように 白本 を妖怪の本の意味にしましょう」

結果的には、初代「がしゃどくろ」でも「畜婦人」でも、どちらにせよ、今野圓輔などが「画像妖怪を表紙に用いる」というパターン(デザイン案3のモデルでもある教養文庫の『日本怪談集』妖怪篇に用いられたカバーのデザイン)などが先鞭をつけた結果、いつの間にかつくりだされていってしまった「本文にまったく出て来ない・主題とも重なっていない画像妖怪が表紙を飾っている」という、本書の年代分けでいえば《アプレゲールの後編》あたりから書籍装幀に使われ出したパターンを「本文に登場するし、紹介したい主題にも重なっている画像妖怪を用いた、新規図版」というかたちで意図的に破ることが結果として出来たので、良かったとは思います。

 

未使用画像を見てみよう

冒頭で触れたように『列伝体 妖怪学前史』では250点超の貴重な図版が掲載されています。できるだけ多くの図版を掲載できるように執筆時や紙面の校正の際に取捨をしています。ここでは掲載できなかった図版の数々を執筆者毎に紹介していきます。

 

【南方熊楠・柳田國男・牧田茂直筆資料(伊藤慎吾)】


▼図8 南方熊楠 昭和4年雑賀貞次郎宛ハガキ(伊藤慎吾蔵)

 

南方熊楠が昭和4年(1929)に弟子の雑賀(さいか)貞次郎に宛てて送った葉書。『西鶴輪講 好色一代女』を贈ることが書かれています。熊楠は同じ町内(現・和歌山県田辺市)でも書簡でやり取りすることが多くありました。現代ならメール魔・ライン魔になったに違いありません。詳しくは伊藤『南方熊楠と日本文学』(勉誠出版)参照。


▼図9 柳田國男『新国学談2 山宮考』昭和22年(伊藤慎吾蔵)

 

柳田國男が民俗学者牧田茂に献本した『山宮考』です。前見返しに次のように記されています。「生きてまた ことしも見たり 柘(つげ)の花  柳叟 二二・七・一九」 柳叟は柳田國男の号。昭和22年(1947)7月19日の日付があります。


▼図10 牧田茂旧蔵『新国学談2 山宮考』昭和22年

 

図9と同書です。牧田茂については『妖怪学前史』でも「今野圓輔」の項で言及されています。奥付裏面ページに「―昭和二十二年七月十七日 先生のお伴をし箱根、叢隠居にゆく―」と書き記しています。箱根の叢隠居とは折口信夫(おりくち・しのぶ)の別荘です(現・國學院大學の厚生施設「叢隠寮」)。牧田が柳田國男の同伴して、折口の山荘に訪れた時、図2の歌をもらったというわけです。この時の叢隠居での記念写真が『妖怪学前史』205ページに載っています。併せてご参照ください。

 

【奥付にあるイラスト――押戻キャラの由来(氷厘亭氷泉)】

『列伝体 妖怪学前史』の奥付には、チョコッと小さいイラストを配置してあります。
別に何の意味の無いようなものですが、実はこれにも本書で取り扱った先人にリンクさせた要素があります。

奥付に配置させてもらったイラストに用いてるのは竹に笠で、これはお芝居でいうところの「押戻」(おしもどし)の身につけている小道具要素です。


▼図11 奥付に用いたのはこういう押戻しキャラ。(氷厘亭氷泉・画)同じく「魔除け」の要素のある「麻の葉」模様からつくったデザインです。

 

ひょーせんが毎日アップをしている『和漢百魅缶』などを日頃ご覧になっている方々には、毎年6月の末と12月の末といった季節の節目で「どしんどしん」と竹を持った「押戻キャラ」をシーズンごとに毎回あたらしく描いてアップしたりしているので、ピンと来るかも知れませんが、怨霊や悪魔・妖怪が現われた場面に登場して、それが舞台から外へ出て行かないようにはたらく剛勇な荒事の役(お芝居や世界設定ごとに、当てはめられるキャラクターは色々異なります)がこの「押戻」です。

これを奥付――本のいちばん最後につけたというのは、要するに「魔封じ」の意味合いがあるゾといった「縁起かつぎ」なわけで、日頃から妖怪をあつかった本には、何かしらこういった要素のものを毎回描き添えているので、今回の『列伝体 妖怪学前史』にも装備させた次第です。

そんなことをひょーせんは、なぜ習慣・パターンとしてやっているのかというと、吉川観方がそういう《あそび》をやっていたのを見て育ったからです。(観方の本を買ったのは高校生のころでしたので、その頃からですかね?)


▼図12 吉川観方『続 絵画に見えたる妖怪』(1926年)の最終ページに「押戻」として掲載されている錦絵。3世歌川豊国による役者絵『歌舞伎十八番』の「押戻・鎮西八郎為朝」(1852年)が用いられているが、目次で「押戻」とあるのみで解説やキャプションは一切本文には無い。

 

吉川観方『続 絵画に見えたる妖怪』のいちばん最後のページに載っているのが、この「押戻」の錦絵。つまり1冊の本をお芝居の舞台に見立てて、幕切れのところにこれを配置していたわけですネ。

なお、「総説・妖怪学前史のつきだし」で《三角関係》として紹介した、徳川時代の創作の世界のなかでも、もちろん「押戻」のかたちはさまざまに用いられていて、版本などでも坂田金時や朝比奈三郎といった面々が剛腕を奮って最後に出て来るのは、「押戻」の要素が当然「みんなが親しんでるもの」として反映されている結果の一ッでもあります。

 

【年表にリンクするもの(式水下流)】

ある程度個々の項目校正作業が終了すると執筆者一同で年表の作成作業が始まりました。基本的な部分は伊藤慎吾さん、氷厘亭氷泉さんに式水も参加させていただいてできたものに各自追加したい項目を持ち寄ってどんどんと情報量は増えていきました。この段階ではページ数の調整が必要だったら取捨を行うので、思いついたものを入れていきましょうという感じでした。大詰めの段階で印象が深かったエピソードを画像と共に紹介させていただきます。
幕張本郷猛さんが追加を希望した日本テレビ『お昼のワイドショー』「カメラの捕らえた妖怪、怪音…泥田坊の呪い!」の放送日が未定だったので、式水が別件で行く機会があった国会図書館で過去の新聞のテレビ欄で確認しました。更にその情報のソースであった『女性自身』1977年の記事も号数を確認しようとしたところ、佐藤有文の図鑑記事が載っていることも教えていただき、『女性自身』1977年7月14日号「世界のお化け100人」を印刷しました。この記事に掲載されている「山男」は『列伝体 妖怪学前史』261ページに記載のある通り、他の佐藤有文の本にも紹介されていないものでした。


▼図13 『女性自身』1977年7月14日号「世界のお化け100人」の扉絵

 

また、この時の調査では偶々、同じ『あなたのワイドショー』で1976年8月20日に弘前のお化けを守る会の発足に繋がったという放送の日付も分かったりもしたので、収穫が多かったです。
年表では、前述の通り、各自得意分野で追記をして、私も映像作品を中心に年表追記したのですが、永島大輝さんは「妖怪名彙」の元資料をかなり年表に追記していました。これは今まで一番多く掲載していた角川ソフィア文庫の『新訂 妖怪談義』よりこの点においては、網羅しているはずです。(『新訂 妖怪談義』自体は良い本なので、『列伝体 妖怪学前史』と併せて、読んでいただければ、幸いです。)私も「妖怪名彙」の参考資料を幾つか所持していて画像をメンバーに共有していましたが、本に載せるには地味目な書影なので、使用しなかった2枚をここで紹介いたします。


▼図14 佐藤清明『現行全国妖怪辞典』(年表1935年参照) 「妖怪名彙」のスネコスリなどはこの本を参照にしています。


▼図15 澤田四郎作『大和昔譚』(年表1931年参照。献呈署名付き、献呈先の岩井君は『暮らしの妖怪たち』の岩井宏實) 「妖怪名彙」のスナカケババはこの本を参照にしています。

 

【妖怪学前史と民俗学(永島大輝)】

―図書館の画像

「前史」では柳田國男以外の民俗学や創作方面のことをたくさん書けたのかなと思います。

民俗学と妖怪についてもそりゃ取り上げて、もちろん柳田國男を取り上げるのは当然の流れですが、むしろ評価されないような人を今回は取り上げなくては、と思っていました。それで高橋勝利や橘正一を書いたつもりです。そうした埋もれた研究者の再評価をしないといけないというのは、多くの民俗学者は気づいており、本書でも影響を受けています。

民俗学者に限らず、妖怪を研究する人は本書を読めば、これまでにない視点は得られるとは思います。どのような評価をされるかは分かりませんが、野心的な本だとは思っています。

最近ようやく在野の研究者、南方熊楠がメジャーになってきている感じがありますが、2016年、和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館にて「熊楠と熊野の妖怪」というイベントがありました(このイベントにより『怪人熊楠、妖怪を語る』という本が後にでます)。

そのイベントに合わせて「田辺市立文化交流センターたなべる」という施設の内部にある、「田辺市立図書館」の方が熊楠以外の妖怪も含め、造形化して貼っていたのです。

結構感動するレベルでよくできているので許可を戴き撮りました。とても素晴らしい図書館です。働いている方が優秀なのでしょう。

とくにこのつぼ姫様なんかは学校の怪談でして、熊楠の報告ではありませんが、田辺の方に聞くと面白いと思います。私はその後、紀伊富田でガジャンボやヒダル神の話などを聞いて歩きました。現在コロナ禍ですがまたお話を聴きたいものです。


▼図16 田辺市立図書館に貼られていた妖怪たち

 

―草鞋の画像

「前史」では『芳賀郡土俗研究会報』の所で載せたのですが、栃木県は今も草鞋が地面に刺してあることがありまして、ずっと行われてきたのでしょう。コロナ禍の一年目の時はやっていなかったのですが、今年復活していました。公民館で草鞋を編む時に人が集まるのを避けたんでしょうね。これは悪神避けとありますが、近くの方にお話を伺うと板倉の雷電神社の関係があるのではとのこと。妖怪学前史115頁に載せた草履を地面に刺す例とは全然意味合いが違うので衝撃です。ただ、雷電神社の習俗はこのあたりに広く分布しており、ネンバン(年によって回って来る当番のこと)が札を持ってきてそれを刺すことが多く、草鞋を指さないことも多いのでここら辺は複数の習俗の融合が感じられます。この点は「小山市にみられる履物を用いる辻固めの調査報告」に指摘があります。

ここら辺と妖怪とのつながりでいうと、柳田國男が「土佐では一眼一足を山鬼また山爺などというほかにまた片足神と称する神様が所々に祀られてあった。例えば安芸郡室戸元村船戸の片足神などは、岩窟の中に社があって、この神は片足なりと信じ、半金剛の片足を寄進するのが古来の風であると『南路志』に見えている。東日本の田舎でも、神に捧げる沓草履がただ片一方だけである場合は多い。何ゆえということは知らぬようになったが、あるいは同じ意味に基づいているのかも分からぬ。長山源雄君の話によれば、南伊予の吉田地方では正月の十六日には必ず直径一尺五、六寸(約十五、十八センチ)もある足半草履をただ片方だけ造り、これに祈祷札を添えて村はずれ、または古来妖怪の出るという場所においてくる。わが村にはこの草履をはくくらいの人がいるから、何が来てもだめだということを示す趣旨であるという。」(「一目小僧」『一目小僧その他』)ということを書いています。

折口信夫も「壱岐の島などでは、袖とり神の外に草履とり神と言うて、草履を欲する神さえある。袖もぎ神は、形もなく祠もない。目に見えぬものと考えられて来た様である。」(「餓鬼阿弥蘇生譚」)などと書いています。これは山口麻太郎の民俗誌に「草履取り神 百日咳を子供が病むと、道の三方口にコーバシを紙に包んで竹の棒の先端にはさみ、新草履を一足そこに括りつけて立てる。」(「壱岐島民俗誌」)とあるので、やはり草履を立てています。


▼図17 悪神避とある草鞋(栃木県)

 

こうした履き物の俗信は最近出た『日本俗信辞典 衣裳編』にもまとまっていますので、併せて読まれれば面白いかと思います。
ちょっと最近俗信方面は研究する人が少ないので、個人的には頑張りたいものです。もちろん『妖怪学前史』は民俗学だけではない妖怪の本なのであえて民俗学者ばかりを書くことはしませんでした。次があれば、今度は逆に井之口章次をはじめ妖怪、俗信研究をもう少し目立たせたい……。

 参考文献
 ・伊藤慎吾・飯倉義之・広川英一郎『怪人熊楠、妖怪を語る』三弥井書店 2019年
 ・山田淳子「小山市にみられる履物を用いる辻固めの調査報告」「小山市立博物館紀要」6号 1998年
 ・柳田國男『一つ目小僧その他』角川学芸出版  2013年
 ・折口信夫『古代研究〈1〉祭りの発生』 中公クラシックス 2002年 
 ・山口麻太郎「壱岐島民俗誌」『日本民俗誌大系』2 1975年
 ・常光徹『日本俗信辞典 衣裳編』KADOKAWA 2021年

 

【担当分の補足(幕張本郷猛)】

―斎藤守弘先生の場合

ネットでは「子供向けの妖怪図鑑を出していた」人扱いされてしまっていますが、付録二冊以外は雑誌記事のみで単行本は残しませんでした。調べずに書ける作家ではないのです。勿論、そんな細かなことはネットにも書かれてはいません。
原稿に反映させなかったものとして下記のものがあります。


▼図18 冒険王 1968年9月号付録 「新妖怪ミニ百科」)

 

残念ながら現代妖怪を創作した中身でしたので(公害妖怪など)、記事ではスルー。斎藤妖怪の傾向を知るには面白い出来なのですが。
斎藤先生の妖怪記事は編集部に怖いものを求められて書いたものが殆どでしたので、妖怪の分類や歴史ついては関心が薄かった感じがします。前衛科学の視点をお持ちでしたから、妖怪=空想という方向なのでしょう。また、児童本が意外と少ない作家さんなのです。傑作揃いの「決定版シリーズ」も雑誌記事の中に埋没してしまっているのが残念です。

―中岡俊哉先生の場合

仕事で妖怪記事を書かれていたと思われるので、分類も子供向けの大雑把なものでした。「霊の一種」という考えは強固なものだったのでしょう。妖怪に興味がなかったわけではないことは『日本の妖怪大図鑑』の参考文献を見ればわかると思います。
むしろ原稿は、いつまで経っても評価されない再現フィルムを放送した先見性、川口浩と編成した探検隊などをネット上で評価する人間が皆無であることに怒りをぶつけて書いた感じです。
原稿にあるように「怖い本」が売れることを各出版社に知らしめ、妖怪図鑑発売の下地を作った功績は斎藤守弘先生と双璧であるのは間違いないと思います。

―佐藤有文先生の場合

ネット上での侮辱のされ方が一番激しい作家で、無責任なブログでの佐藤先生に対する放言や無知には怒りを感じています。せっかくの復刊も「高い」という声が聞こえてくるのは悲しいです。「一九七〇年代の妖怪覇者」などと格好つけて書きましたが、立風書房の二冊(『日本妖怪図鑑』『世界妖怪図鑑』)とドラゴンブックス(『吸血鬼百科』『悪魔全書』『日本幽霊百科』)で業界をリードしたという文言が入っておらず、分かりにくい原稿となっていたことをお詫びいたします。売れ行きや印象度ではむしろ水木しげる先生を上回っていたというのが当時の感覚。それを証明してみせろと言われても「目をぶつけた時に出る火花」のようなもので、不可能です。版数や水木図鑑への影響で判断しました。

―山内重昭先生の場合

『列伝体 妖怪学前史』の企画書を見せていただいたとき、私の方で山内先生の原稿を増やし、書かせてくださいとお願いしました。『世界のモンスター』は長期間売られていたわりにはネットではあまり話題になっていません。しかし怪奇ものがシリーズ化された中の一冊が妖怪テーマであり、斎藤守弘先生の雑誌記事が蘇ったことも含めて画期的であると思います。
残念ながら国会図書館で見た『医院建築の基礎知識』はカヴァーが処分されており、本人画像は入手出来ませんでした。ご本人が既に失くされていた雑誌記事のコピーをお送りすることが出来て本当に良かった。

 

【高木敏雄『日本伝説集』肉筆原稿(御田鍬)】

図19は序文、図20は後に『郷土研究』3巻7号にも報告されている妖怪「大鐘婆サの火」の記述部分です。
『妖怪学前史』ではあまり触れることができませんでしたが、 高木敏雄(1876-1922,熊本県生まれ)も藤澤衛彦と同様(というと語弊がありますが)、伝説研究の第一人者でした。
本編で少し記述しましたが、この原稿は藤澤衛彦『日本伝説叢書 北武蔵の巻』の原稿と一束されていたものです
(余談ですが、高木敏雄が自ら書き写したと思われる古地誌なども含まれていました)。
高木は他にも、柳田國男とともに雑誌『郷土研究』を発行しており、さらに『日本伝説集』復刻版では山田野理夫が編者となり解説を書いているなど、本編に掲載された他の人物との関連も深い人物です。




▼図19・20 高木敏雄『日本伝説集』(1913)の肉筆原稿の一部(御田鍬・所蔵)。

 

【「化物会」調査のこぼれ話(毛利恵太)】

『列伝体 妖怪学前史』で「妖怪学名彙」の一つとして取り上げた「化物会」の紹介は、私の個人サークル・松籟庵から刊行した同人誌『明治の讀賣新聞における「化物会」の活動について』の内容を要約したものとなっています。そしてこの同人誌は、私が大学で書いた卒業論文を元にしています。
大学に在籍していた頃、卒論のテーマを決めるためにいくつかの新聞紙のデータベースを検索した時、偶然にも見つけ出したのが「珍怪百種」という画像連載でした。これを起点に確認した化物会について、当時の妖怪研究の方面でも未開拓の領域だったこともあり、周辺の調査を論文としてまとめると面白いものが書けるだろうと考えたのが化物会調査の始まりでした。


▼図21 珍怪百種「河童」(讀賣新聞 1907/8/7朝刊5p)


▼図22 珍怪百種「疱瘡の神」(讀賣新聞 1907/8/6朝刊5p)

 

「珍怪百種」は、化物会の活動記事と並行して連載されていました。主な出典は鳥山石燕の『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』、「稲生物怪録」のおばけたちを描いた『稲亭物怪図説』といった、現代の我々からするとお馴染みの妖怪画となっています。しかし、当時の人々にとって鳥山石燕の描いたおばけたちは定番妖怪というわけではなく、文字通り「珍怪」として扱われていました。近代における人々にとっての定番妖怪がどんなものだったのか、そしてどのように石燕のおばけたちが有名になっていったのかについても『妖怪学前史』において書かれているので、ぜひお読み下さい。
ここで紹介するのは『妖怪学前史』には掲載していない「河童」と「疱瘡の神」です。
「河童」を描いた人物は恐らく、江戸後期から明治にかけて活躍した日本画家・飯島光峨のことと思われますが、出典とされる『光峨戯画』についての詳細は不明です。「疱瘡の神」は、十返舎一九と歌川国貞による合巻『湯尾峠孫杓子』から採用されています。


▼図23 林若樹「妖怪画巻について」(讀賣新聞 1907/8/1朝刊6p)

 

画像そのものの掲載はありませんでしたが、妖怪の絵巻物について書かれた記事もありました。これは林若樹(収集家。坪井正五郎から人類学を学び、同好会「集古会」を結成した)が化物会の記事を受けて投稿した記事で、集古会に出品された絵巻物を紹介しています。書かれている妖怪のラインナップから、吉川観方の旧蔵品だった佐脇嵩之の『百怪図巻』や、「ぬりかべ」が描かれていることで有名なブリガムヤング大学所蔵『化物之繪』などと同じ系統の、狩野派の絵巻物と考えられます。しかし、この妖怪の並びの絵巻物は現在確認されている作品のどれとも異なっており、現存しているかは判明していません。文章のみですが、妖怪の絵巻物の重要なサンプルと言えるかもしれません。

化物会の活動内容は、明治後期の人々の妖怪認識、井上円了が撲滅を目指した妖怪とは異なる領域の研究の試みなど、当時の妖怪愛好の雰囲気を読み取ることができます。化物会の周辺は未だに判明していない事柄も多いので、今回の『妖怪学前史』をきっかけにして、他の知見からも調査が進んでいくのを楽しみにしています。

 

『列伝体 妖怪学前史』に繋げて(式水下流)

以上のように『列伝体 妖怪学前史』は打ち合わせやデザイン、画像を執筆者一同であれこれ意見を出し合って、作られた本になります。
この記事を読んでいただき、ご興味を持っていただいた方は是非『列伝体 妖怪学前史』を一読いただければと思いますし、既に一読いただいている方はこの記事を読むことで新たな発見も色々と得られると思いますので、一度二度と言わずに三度四度と末永く読んでいただければ、幸いです。

 

 

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