●刊行にあたって…川尻道哉
本書はインドの大叙事詩『マハーバーラタ』における主人公格アルジュナと宿敵カルナの闘いを扱ったものである。本書で扱った部分の直前までは上村勝彦氏による翻訳があるが、氏の急逝によりその後の翻訳は途絶していた。
それをなぜ筆者が翻訳に取り組んだかといえば、『マハーバーラタ』の邦訳に対する需要があったからであって、本書にも記述したが、『バーフバリ』に代表されるインド映画、さらに Fate/ Grand Order というゲームが広く人気を博したことがその背景にある。後者では特にアルジュナとカルナがキャラクターとして登場し、多くの人々に愛されている。この作品をきっかけにインドの文化などに関心を持つようになった人も多い。
筆者はもともとサンスクリットの文法学、言語哲学などを専門とし、インドの詩や文学、神話などにはあまり明るくない。しかし、インド学者の間で、今日のエンターテイメントからのインド文化への関心の広がりに興味を持っている人があまり見受けられず、「狭い意味での専門と違うから」とこの状況を等閑視するのもよくないと考え、『マハーバーラタ』に取り組むことにしたのである。
筆者が日頃扱っている文法学や哲学の文献では、極めて厳密にサンスクリットが記述されており、文法的に正しいことが宗教的意味を持つとすら考えられている。それに対して、『マハーバーラタ』はそこまで厳密に「正しい」サンスクリットで記述されているわけではなく、また底本として使用した「プーナ批評版(Poona Critical Edition)」のテキストもかなり強引な校訂が多く、戸惑うところも多かった。またそもそも筆者には文学的素養が欠けている。これを読解するには様々な先行研究や註釈などを参考にしなければならなかったが、その際に筆者がこれまで専門の研究との関連で勉強した言語学を始めとする近現代の思想・学問の知識がかなり役に立った。勉強はしておくもので、なんの役に立つかは実際にそれが役に立った時初めて分かるものである。
さらに、『マハーバーラタ』を理解するには、その背後にあるインドの思想・哲学なども知っておいたほうがよいと考え、本書にはヴェーダに始まるインドの宗教思想についての簡単な解説も記述した。これも専門に関連して学んできたことが役に立っている。インド思想は業と輪廻と解脱の思想であると言っても過言ではないと考えるが(『マハーバーラタ』もまたそこを主題とすると宣言されている)、それにまつわる様々な概念・観念について、非常に論理的な透徹した思索が行われていることを読者の皆様には知っていただきたかった。そうした肥沃な精神的土壌において『マハーバーラタ』は生まれたのである。
かかる事情のもと、本書は執筆された。本書を通じて、『マハーバーラタ』のみならず広くインドの古典文化への関心が読者の皆様の間に醸成されることを期待するものである。
●『マハーバーラタ』とは
サンスクリット語で書かれ、全18巻、約10万もの詩節より成る、インド文化の金字塔とも言える古代叙事詩。
「マハーバーラタ」は、「マハー(偉大な)・バラタ族」=「バラタ族の物語」という意味。
従兄弟同士の戦争物語を主筋とし、その間に多くの神話、教説、哲学が織り込まれた、膨大な書物である。物語では、何億という人間が戦争で命を落とし、生き残るのはたったの10人であるため、この物語を「寂静の情趣(シャーンタ・ラサ)」とよぶこともある。
『マハーバーラタ』の主題はその題名にあるバラタ族(bhārata)の対立と戦争の物語である。しかしその主題は全体の五分の一ほどに過ぎず、残りは様々な神話、挿話、論説などからなる。中にはよく知られる『バガヴァッド・ギーター(Bhagavadgītā)』のように独立した聖典として愛読されてきた箇所もあるし、賭け事で悪魔に陥れられた王と愛妻を描いた『ナラ王物語(Naropakhyāya)』のような説話も含まれる。そうした総体をもって『マハーバーラタ』は成り立っているのであり、一つの独立した物語として扱うにはあまりに複雑である。(第1章より)
●アルジュナとカルナ
・アルジュナ
アルジュナはパーンダヴァ五王子の三男であり、母クンティーとインドラの間の子である。五兄弟の中で特に弓術に優れ、その武勇で多くの敵を倒すことで物語において主人公的な役割を果たしている。その点で、知略に優れる長男のユディシュティラや、棍棒戦などの腕力に優れる次男ビーマとは異なる。『マハーバーラタ』に描かれる戦争では、二輪戦車に乗って弓矢で攻撃することが主な戦いの手段であって、したがって弓術に優れるアルジュナはパーンダヴァの主戦力となることを期待されていた。(第4章より抜粋)
・カルナ
クンティーがクル王パーンドゥの妃となる以前に、太陽神スーリヤとの間に生んだ子。生まれながらに黄金の甲冑を身に着け耳飾りをしていた。クンティーは外聞を気にして子供を河に流してしまう。カルナは御者(sūta)アディラタに拾われ、その妻ラーダーに養育される。
したがってカルナは本来クンティーと太陽神の子であるにもかかわらず表向きの身分は御者の子であり、しばしば「御者の息子(Sūtaputra)」「アディラタの子(Ādhiratha)」「ラーダーの子(Rādheya)と貶称されることになる。(中略)カルナの出自には太陽神の子でありながら望まれた出生ではなく、さらにある種の「箱舟漂流」のモチーフが加味され、悲劇的な人生が暗示されている。(第4章より)
大事に育てられたゆえの甘さ、弱さをはらむアルジュナと、常に強くあろうとし自らの運命を受け入れるカルナは互いに相容れない存在であり、同時にどちらも超人的な力を持ちながら決して完全な存在ではないことが描写のここかしこに見て取れる。そこに『マハーバーラタ』という古代の物語の奥行きを見出すことも可能であろう。(第4章より)
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本書では、『マハーバーラタ』の最大のクライマックスであるカルナとアルジュナの戦いを、本邦初の原典訳いたしました。
この二人がいかにして戦い、彼らはどのような運命をたどるのか…
全体のあらすじ、その背景にあるインドの宗教思想などもわかる必携の一冊です!
ゲームや小説などでも大人気の二人の英雄の戦いをどうぞお楽しみください!
カバーイラスト 江川あきら
初回限定特典として、書き下ろしカバーイラストポストカードがつきます!
●『カルナとアルジュナ』をより楽しむために