近代日本、「古典」が力を持った時代があった―
昭和十年代の批評界を領導し、数多くの支持者を得た希代の評論家・保田與重郎。
近代および戦時の日本に生きた彼は何故、「古典」という装置を選び、その思想の中心に置くことを選んだのか。
彼の思想の形成期を丹念に追うことで、その背景にある近代・日本・古典の三竦み(トリアーデ)の構造を読み解き、保田の営みを時代のなかに定位する。
乱世を迎えつつあるいま、近代・古典・日本という視座から捉えなおす日本文化論。
*保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)
1910-81(明治43-昭和56)
文芸評論家。奈良県の生れ。大阪高校をへて東大美学科卒業。
1932年大阪高校出身者たちと《コギト》を創刊、ドイツ・ロマン派の影響下に日本古典の精神の継承を目指す。また、《現実》同人となって、亀井勝一郎、中谷孝雄と知り、神保光太郎、中島栄次郎、緒方隆士を誘って、35年《日本浪曼派》を創刊、昭和10年代の指導的評論家になる。
大和桜井に生れ、日本の故郷を故郷としたと自称する保田は、幼少時から親しんだ日本古典の教養に、ドイツ・ロマン派から学んだ〈イロニー〉の方法を接着させ、独自の晦渋な文体で〈敗北の美学〉を謳いあげ、プロレタリア文学運動壊滅後の虚無的な時代を生きる青年層を魅了した。