東西の詩劇をこんなにマジカルに接続し得る人はほかにない。(宮城聡)
『神曲』を訳すうちに予感した夢幻能との共通点を、平川はウェイリーの英訳 Nō plays を中間に据えることで、解き明かす。巫女(みこ)のように能作者も詩人ダンテも、シテである作中人物の臨終(いまわ)の思いを語る。
煉獄の亡霊も冥福を祈ってもらい気が静まり消えてゆく。失せにけり、失せにけり―
この優雅な比較文学論は、謡曲と『神曲』の類似性の指摘から始まる。
あの世を旅するダンテはワキ、ワキツレはウェルギリウス、曲ごとに出会う亡霊がそれぞれシテである。夢幻能の彼岸は仏教、ダンテの来世はキリスト教だが、亡霊は現世の恨みを語り、執着を絶ちたいと願う。その願いは英語で言えば東西ともにsoul’s wish to break the bondsと同じである。
著者はウェイリー訳Nō Plays of Japan を用い、両者に共通のこのキー・ワードのみか、詩的な発想や救いの構造の同一性を立証し、ブレヒトの党の掟が中世の生贄の大法の掟にほかならぬことをも証する。圧巻は漢文化と日本人のアイデンティティーの関係を白楽天の英訳を活用することで説いた最終章だろう。平川は英国の優れた東洋学者ウェイリーを学ぶことで西洋の偉大を自覚したという。