明治期漢詩文・文人画壇の動向を伝える基礎資料
日本文学史上もっとも漢詩文が隆盛であった明治期、広瀬淡窓の開いた咸宜園に学び、左手の文人画家として名を挙げ、のちに地方三大家の一人に数えられるほどの確固たる名声を築いた、九州文人画壇における中心人物・吉嗣拝山。
漢詩集『古香書屋詩存』、『福岡日日新聞』等の地方紙、日記・草稿類や写真帖などの資料を網羅的に検証し、150点を超える図版とともに、拝山の生涯、そして明治期漢詩文界の動向を活写した年譜を収める。
あわせて拝山の中国体験、世に流布する拝山贋作の問題を取り上げた論考を収載。
資料編として、これまで未公開であった自筆日記・草稿類、所用印譜を影印・翻刻し、多角的な研究の基盤を提供する。
明治期の漢詩文研究・文人画研究を行うための必須の書籍。
*吉嗣拝山(よしつぐ・はいざん)とは…
幕末の太宰府に生まれた文人画家・漢詩人。
漢学を大分日田の咸宜園において広瀬青村に学び、絵画を京都の中西耕石に学んだ。明治の初めに事故で右腕を切断するという憂き目にあい、その後左手で書画を執筆した。そのため世に〝左手拝山〟と呼ばれた。
また、切断した右手の腕骨を筆の軸とした「骨筆」を作製、これを引っ提げ中国に渡り、当時の上海画壇においても左手の文人として評判となった。終生、太宰府天満宮の傍らに住み、福岡・博多ひいては九州を代表する画家・漢詩人として誰知らぬ者はない存在であり、当地に行幸された大正天皇の御前で骨筆をふるって梅花を描き喝采を博するほどの名声があった。
大正四年(1915)正月に亡くなり、本年(2015)が歿後百年となる。