谷川士清自筆本『倭訓栞』について
『倭訓栞』の編纂は『日本書紀通証』の訓義を発展、補充する目的で開始された。全体を前編・中編・後編の三部に分かち、前編四十五巻三十四冊、中編三十巻三十冊、後編十八巻十八冊、計九十三巻八十二冊から成る浩瀚な辞書で、最終刊行までに実に百十年を要して完成した。登載語数は凡そ二万、古語・雅語をはじめ方言・俗語、更には外来語を収め、その蒐集の範囲は士清周辺の出来事にまで及んでいる。著者みずから「固陋を忘れて臆断せるものならし」(凡例)とうたうように、その編纂態度は独断専行を排除し、実証的立場に立って、飽くまでも確実にして的確な典拠を引くことに努めている。それ故にこの時代のものとしては最も内容の整った辞書として、後世に与えた影響は頗る大きい。太田全斎の『俚言集覧』をはじめ、近代国語辞典の祖たる『言海』にしても、また『大日本国語辞典』にしてもしかりである。
このたび影印刊行する石水博物館所蔵の谷川士清自筆本は、この『倭訓栞』の原点を明らめることのできる極めて貴重な資料である。『倭訓栞』の稿本が『日本書紀通証』のそれと共に「反古冢」に埋められた事実をもってすれば、本書の存在が『倭訓栞』成立の過程を知る上において、また国語学史研究において、どれほど価値あるものであるかは贅言を要すまでもないことである。
これまで『倭訓栞』と言えば活字翻刻本かせいぜい整版本がその対象であったが、いずれも誤りが多く、とりわけ活字本は研究に耐え得るものでないことから、自筆本の影印刊行は編者の望むところであった。本書の刊行により谷川士清『倭訓栞』の真価が問い直され見直されることを願う次第である。
(三澤薫生)