日本人は外国の模倣は上手だが独創性に乏しいと、明治の昔からいわれてきた。とくに、一九七〇年代ころからは、科学技術で立国するためにいかに独創性を育むかについての、国民的な関心が続いている。その一方で、独創にいたるまでのあいだに模倣が欠かせないことや、日本の文化では先人を模倣することが尊ばれてきたことも強調されてきた。
すでに論じ尽くされているかのようにも思える日本の文化と模倣について、いまなぜ論議を重ねなければならないのだろうか。その大きな理由は、文化を経済的な富に変える原理である知的財産権をめぐる状況が激しく変化していることにある。デジタル技術や通信ネットワークの発達によって、サイバースペースと呼ばれる空間が生まれ、そこでの社会・経済活動の原理が、近代の私的所有権の原則を崩す力を持ってきた。それに対抗する方策の必要性が叫ばれており、本書が執筆された平成一四年は、「知的財産権(知財)元年」ともいわれている。
知的財産権に限らず、近代の私的所有権はジョン・ロックの所有権論にその基礎を置いている。ロックの所有権論では、わたしの身体はわたしが所有していることは疑いのないもので、その身体が労働して生まれたものはわたしのものだという。わたしの労働によって生まれた芸術作品や発明はわたしのものだという知的財産権の発想も、ロックの所有権論そのものである。
ところが、科学技術の進歩によって、ロック流の所有権論の基礎が揺らいできた。わたしが所有しているはずのわたしの身体を、わたしの意志で自由にできないことは、終末期の医療の現状をみれば明らかである。また、たとえば、インターネットで買い物をするときには、入力した住所や電話番号、クレジットカード情報という形でしかわたしは存在しない。サイバースペースでは、リアルな身体というものがなく、わたしの身体は符号化された情報のなかに溶けだしていて、身体なき身体が経済活動をしているといういいかたもできる。わたしの身体の所有から出発する私的所有権は、こういったところでも崩れつつあるのだ。
このような時代の転換点を迎えて、そもそも何かを創造するというのは、どのような原理によってきたのか、知的財産権の強化は社会や文明にどのような効果をもたらすのか、ポスト近代の創造はいかなる形で守られていくべきなのかを本書では考察していきたい。
『序にかえて』より