沖縄の歴史と
現代を生きてきた
この作家を知らないで
沖縄と現代日本文学は
語れない!
刊行にあたって(編集委員会)
先の大戦で唯一地上戦を経験した沖縄は、その焦土の中からアメリカ軍の占領下という厳しい現実と向き合い、生活の再建と同時に、また戦後文学を出発させなければならなかった。『カクテル・パーティー』(一九六七年)によって沖縄で初めての芥川賞を受賞した大城立裕は、そんな沖縄の戦後を見据え、かつ東アジアの文化的古層を今なお色濃く残す沖縄に生きる自分を凝視め、この間四十年以上にわたって営々と作品を紡ぎだしてきた作家である。「占領」「琉球」「シャーマニズム」「戦争と平和」「米軍基地」等々、さまざまな「沖縄」がかかえる硬質な主題と大城立裕はよく取り組んできた。
そして、それはまた、結果的に「本土」で生み出され続けてきたこの国の近代文学・現代文学の在り様を相対化する営みでもあった。
その意味で、ここに長編から短編に至る全ての小説を中心に『大城立裕全集』全十三巻(各巻平均、四百字詰原稿用紙一五〇〇枚収録)を編んで刊行する意義は、この国の近代文学・現代文学にとっても、大きいものと確信する。
【基本コンセプト】
・小説は長・短編を問わず全て収録。戯曲・ノンフィクションも収録する。
・評論・エッセイ、紀行文については大城立裕の思想・文学観が明らかになるものを選択して収録する。
・各巻ごとに「解題」「著者のおぼえがき」「解説」を付す。また第13巻には「大城立裕 書誌」を付す。
・底本には、著者了解の単行本・新聞、雑誌等を使用する。
沖縄に生きた小宇宙を(大城立裕)
物を書くということは、己の生きる道をそのつど確かめることなのでしょうが、それは意外と楽ではなく、それでも書かずにはいられなかった、業というほかはなかったと、いま思い知っています。
五十六年前に戦争が終わると、沖縄はアメリカに委ねられて日本国という生きる支えを失い、どう生きていけばよいかと途方に暮れましたが、その思いを正直に書いてみることから、私の思索と創作の人生がはじまりました。
よくも愚直に沖縄にこだわったものだと、われながら呆れています。沖縄と同行二人という文芸、思想の歩みは試行錯誤の道をなし、確信と疑い、視ることのミクロとマクロ、悔いと恥じと誇り、それに嘆きと笑いと泣き笑いが渾然と入り混じった乱模様です。
小説、戯曲、エッセイ、そして歴史まがいのもののすべてに、それは共通してあると思います。一千年の歴史と文化の残影を塗りこめた変貌の五十年――の先に何が見えるか。
この思いは後進の文芸にあらたな方法で引き継がれているようですが、この時期に、一足先の前世紀に表現された「沖縄に生きる」私の小宇宙を、全集にまとめてくださるという企画に、感謝をもってすなおに乗らせていただくことにしました。
いまはただ、読んでいただければと願うばかりです。
大城立裕(おおしろ・たつひろ)
・一九二五(大一四)年九月、沖縄県中頭郡中城村生まれ。
・中学まで沖縄で過ごすが、その後中国に渡り、上海東亜同文書院に入学。敗戦後帰郷。沖縄県職員となり、執筆活動を始める。
・一九六七年、『カクテル・パーティー』(『新沖縄文学』)で第五七回芥川賞を受賞。
・一九六八年、沖縄タイムス社芸術選賞大賞を受賞。
・その後、『小説琉球処分』(六八年)や『恩讐の日本』(七二年)、『まぼろしの祖国』(七八年)などを発表し、精力的に創作活動を展開。
・一九九八年、『恋を売る家』(九八年)を発表し、『日の果てから』(九三年)、『かがやける荒野』(九五年)とともに「戦争と文化」三部昨を完成させる。
・(一九九八年の項に)『日の果てから』(九三年、第二一回平林たい子文学賞受賞)
・現在もなお、旺盛な執筆活動を続けている。
図書館・研究室必備の基本図書!
一九六七年、『カクテル・パーティー』によって沖縄初の芥川賞を受賞。以後、今日まで現代日本文学・沖縄文学の最前線を走り続けてきた大城立裕。
沖縄に生まれ、沖縄で育ち、沖縄の古層文化と歴史・現在に精通した大城立裕にしか書けない、沖縄の過去・現在・未来、そして沖縄のこころ。それは「日本=ヤマト」を撃ち、「アメリカ=基地」を撃つ。
この作家を知らずして、戦後日本文学が語れるか。
「ポスト・コロニアル」文学の原点がここにある。
大城立裕という作家
木下順二(劇作家)
『カクテル・パーティー』を今度読み返してみて、それが最初に発表された三十四年前の時の読後と同じ強烈な感銘を味わった。ということは、同じであることプラス、この三十四年間に沖縄がくぐって来た歴史の内面化されたその後の作風を予見させるという、より複雑な感銘を今度持ったということだ。
つまり沖縄の人であるこの独自な作家は、今日までの長い作家歴の中で、たとえ材料が沖縄でない場合でも、その独自性をゆるがずに貫いて来たということだ。
というと、なにか固苦しい作家のようにとられかねないかも知れぬが、例えば最近作である『琉球楽劇集 真珠道』を見てみたまえ。十八世紀以来の貴重な琉球楽劇の伝統を今日に生かすべく、ここでは劇作家である作者が、厳密に伝統に則りつつ、自在に華麗な花を咲かせている。端倪すべからざる――という語を辞書で引くと「奥行がどこまで深いか、はかり知れない」とあるが――この作家の本質がここにも見てとられる。
「大城立裕全集」の刊行を、私は心から喜ぶものである。
沖縄の宿命とせめぎあう孤高の精神
又吉栄喜(作家)
上海の東亜同文書院大学入学、独立歩兵第一一四大隊入営、嘉手納の米軍第一航空師団就職などという沖縄の現代史と表裏一体となった大城立裕氏の人生は、生家の屋宜祝女殿内(やぎのろどんち)の噴出するような鮮やかな血とせめぎあっている。
現実空間の「カクテルパーティー」と神話空間の「亀甲墓」のせめぎあいは、がっぷり四つに組み、寄り切ったり、うっちゃったりしながら営々と続いてきた。
今回出版される全集はこの二つのエネルギーが合体し、多層の陰に潜む存在をあますところなく我々の前に顕現する。
現代という迷宮の中、過激な現実を描けば描くほど文脈の底から琉球王国時代の本質的な「物語」が沁みだし、神話のように静かに語られるのは驚異とさえいえる。
世界的にあらゆるものが錯綜し、てんでんばらばらに歩いている現代人に、日本文学の中でもひときわユニークなこの全集が意味するものはとても大きいと考えられる。
沖縄の心を映し続ける作家
外間守善(法政大学名誉教授)
大城立裕さんが米軍政下の厳しい沖縄の状況と、状況に対応しながら歴史に耐えている沖縄の姿を映した『カクテル・パーティー』(一九六七年・新沖縄文学)を発表した時の感動を、私はいまだに忘れることができない。感動と共感が鮮烈だった。そこには沖縄人、日本人、中国人、アメリカ人達が、それぞれの民族的個性を背負いつつ、ドル経済下の沖縄に共生している状況があり、そいういう世情のバランスをとるためにはやっていた国際親善を、大城さんは「カクテル・パーティー」という言葉で括った。的確だった。しかもそのカクテル・パーティーの操作を「仮面の論理」という言葉で告発もした。私も同時代の沖縄を共に歩んでいただけに、大城さんの告発が痛さを伴って理解できた。
「仮面の論理」を見ぬき、異民族支配からの脱却をウチナーンチュが自らの意志でかちとろうとしたのは、その頃から疼いていたのである。『カクテル・パーティー』以後の大城さんの作家活動は、「沖縄問題は文化問題である」という言葉で包んで持続している。沖縄を背負って沖縄で生きぬいてきた大城さんの思想と哲学がこの全集に盛られて、二十一世紀の沖縄を励ましてくれるであろうことに期待している。
深い共感とともに
五木寛之(作家)
大城立裕さんは、私の敬愛する先輩作家である。『亀甲墓』や『カクテル・パーティー』、そして長篇『小説・琉球処分』のような力作・傑作はもとより、沖縄から発信される大城さんのさまざまなメッセージに、私はずっと注意ぶかく耳を傾けてきたつもりだ。
個人的にも六〇年代を同伴して走ったという共感をおぼえつつ、外地体験をもつ人独特の闊達さにも惹かれるところがあって、三十余年の細く長いご縁が続いてきた。
一方で、九州・沖縄文学賞(のちに九州芸術祭文学賞と変更)の創設以来、常に大城さんが沖縄からの新しい才能を私たちに突きつける役割りを担ってこられたことも忘れがたい。
沖縄の過去・現在・未来を注視することなしに、われら列島人の明日はない。その意味でこの度の企画は、大きなモニュメントとなるだろう。私自身も、あらためて大城さんの軌跡を、じっくりとたどり直してみたいと思う。