一九〇七年、翁久允は一九歳で単身アメリカへ渡り、西海岸で様々な労働に従事しながら、日系新聞に数多くの小説を発表する。その作品群は異国に生きる日本移民達の人生を活写する「移民地文芸」と呼ばれるものであった。久允はその先駆者をもって自ら任じる一方、一九一一年のワシントン会議では日系新聞の記者として活躍するなど、自在な言論活動を展開する。戦前戦中の言論・思想統制が厳しかった時代にあって、コスモポリタンとして思想し、発言しようとした若き日の翁久允の姿、そして当時の移民社会のありかたは、現代国際化社会の問題点を予言し、象徴していた。様々な国情が複雑に交錯する現代から振り返ってみれば、翁久允の思想と行動、異文化交流・集団の中の個を描いた「移民地文芸」の構想は、まさに先駆的であった。久允の愛娘によって書かれた本書は、亡父を描くことで、その遺志を継ぎ、「移民地文芸」の精神を形を変えて現代に蘇生させた。