「いかに生きるべきか」を探究する使命を負って出発した近代文学は、まず初めに、自由な自己を抑圧する、封建的なるものの残存物と戦わなければならなかった。
そうした残存物による外部的な抑圧は、戦後になって、かなり取り去られたと言えるが、次に直面した問題は、自由な自己が他の自由な自己とぶつかり合わねばならないということであった。
個々人が潜めているエゴイズム、悪というものが、我々の前に立ちはだかり、また自由な自己とか言ってみたところで、取るに足りぬ体力や知力しか持ち合わせていない卑小な自己にも気が付かされる。
自分のように卑小なもの、自分のような罪人が果たして生きる資格を持つと言えるのか。
自責、自虐、自己反省は、近代文学の一つの条件になり、抑圧する外部的なるものとの戦いと内なる自己との戦いの二つは、切っても切り離せないものとして近代文学を貫いている。
自分というものが持つ悪の要素を厳しく点検することも知らず、個としてのそういう人間のあり方が、結局のところ外部的抑圧として作用するウルトラ資本主義や権力主義を生み出す基本的原因になるというのに、自己を固めることをしない。近代文学の研究世界でさえ、近代の文学者たちが、いかに自己と闘ってきたか、その自己との戦いを見ようとしない。そういう姿勢が強くなった。自己と闘わぬ者が、外部と闘う力など持ちはしないのである。自己との戦いが、外的な抑圧との戦いの基本的条件である。
そう考えた時、近代文学の使命はまだまだ終わっていない。
自己と闘い、外的な抑圧として我々に敵対するものと闘う必要は、今後いよいよ増大する。
本書では、そうした近代文学の担い手たちの精神に迫るとともに、目指さなくてはならない文学本来の姿について論述した。
※書評掲載
「國文學」(2007年.52巻.第10号)67頁に詳細な書評が掲載されました。(評者:山田吉郎)