我が死んだならば、ただ頼朝の首を切り墓の上に懸けよ−
以仁王(もちひとおう)による平家追討の令旨が下り、信濃の国で挙兵した木曽義仲。天下を掌握し栄華を極めるも、病を得て薨去する清盛。東大寺・興福寺の再造営から義仲の入京までを描く第五巻。
治承四年(一一八〇)四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)による平家追討の令旨が下り、木曽義仲は、同年九月、信濃の国にて挙兵する。
翌年の養和元年(一一八一)二月(改元は七月)、天下を掌握し栄華を極めた清盛も、「我が死んだならば、仏堂や塔を造るべからず。仏事供養もしてはならない。ただ、頼朝の首を切って墓の上に懸けよ。」と遺言して、病により遂に薨去(こうきょ)する。
讒言や誤解によって生じた頼朝との関係悪化を、嫡子義重(義高)を人質にすることで解消した義仲は、倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破り、最大の念願である入京を果たした。追いつめられた平家は、京都を捨てて西海へ落ち延びて行く・・・