10年間にわたるフランス留学で、フランスの自由主義や文化を吸収した西園寺公望。政党政治への理解も深かった西園寺は、伊藤博文とともに政友会を結成し、2度にわたり内閣を組織した。
そして、政友会と民政党が交互に政権を担う「大正デモクラシー」を開花させたが、五・一五事件で犬養毅首相が凶弾に倒れると、政党政治は終焉した。
その後、西園寺は、昭和十二(1937)年、陸軍の横暴を押さえるべく首相に宇垣一成を推奏したが、専横を極める陸軍統制派の妨害に遭い失脚。
日独伊三国軍事同盟が調印された昭和十五(1940)年、日本の行く末を歎き、失意のうちにこの世を去った。
政党政治の成立に尽力し、暴走する陸軍と闘った西園寺公望の生涯をたどる。