刊行にあたって
河地 修(東洋大学教授)
東洋大学附属図書館が所蔵する伝阿仏尼筆源氏物語帚木は近年特に注目を集めていた青表紙伝本である。本書を初めて世に紹介されたのは故石田穣二先生であった。東洋大学付属図書館の所蔵に帰したのも、先生が書誌解説を執筆発表されたのも、昭和四十一年(一九六六)のことであるから、今日まですでに四十二年の歳月が経過している。この間、本書は研究者の間で注目を浴びながらも、その全貌が姿を現すということはなかったが、この度、勉誠出版より影印翻刻のかたちで刊行の運びとなった。感慨一入の念を禁じ得ない。
本書は帚木一巻とはいえ、きわめて純度の高い青表紙本系統の伝本である。その刊行出版は、源氏物語の専門的研究のみならず、日本の古典文化の創造的継承という点でも、大きな寄与を果たすであろう。そのことを、東洋大学の一教員として素直に喜びとしたい。
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「幻の伝本」の出現
千年紀の稀に見る僥倖
阿仏尼本は、河内学派の古註釈に定家本と共に参照された有力伝本である。
伏見宮家、紀州徳川家を経て、昭和初期、民間に流出し、幻の伝本となっていた。この間、山岸徳平・池田亀鑑らが調査にしのぎを削ったが、全五十四帖の解明は未了であった。東洋大学蔵阿仏尼本は、分割された正真正銘の一巻であり、抹消しての重ね書き等の様態は、垂涎の研究資料である。
上原作和(青山学院女子短期大学講師)
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伝阿仏尼筆源氏物語帚木 鎌倉時代中期の古写本。本文はきわめて純度の高い青表紙本系統である。
縦十五・四センチ、横十五・八センチ、斐紙、綴葉装、墨付六十一枚、巻頭に白紙一枚、巻末に白紙二枚を置く。紀州徳川家に伝来したもので、上掛けの白紙に「阿仏筆源氏物語/伏見宮安宮照子殿下明暦三年十一月廿六日/紀伊中納言光貞卿へ御降嫁之節御持込」と三行に墨書されている。金で模様を刷いた薄茶の絹表紙の装幀はこの時のものであろうか。光貞は紀州徳川家の祖頼宣の嗣である。
この伝阿仏尼筆の紀州家旧蔵本は、山岸徳平博士の「尾州家河内本源氏物語開題」(昭和十年刊)に、部分的に校合に使用されているが、それは当時、英人モーデ氏(神戸市在住)の許に在って博士は直接見ることを得ず、大正十五年夏秋の候、佐々木信綱・武田祐吉両博士が紀州徳川家に就いて校合されたものを借覧されたよしである。その後の消息は不明で、池田亀鑑博士の「校異源氏物語」にも登載されていない。もとは五十四帖全部完備したものであったはずであるが、そのうち帚木の巻だけが本年五月の古書展に姿を現わし、吉田幸一博士の御尽力によって東洋大学所蔵に帰した。